ゆらりまゆ no 山寺立石寺(山形県)
山寺の名で知られる宝珠山立石寺を参詣する。
駐車場で頂いた観光案内図を手に示されたルートで歩く。
根本中堂である。
天台宗において本殿などを根本中堂といいうこともある様で立石寺における本殿であり国指定重要文化財である。また立石寺のご本尊は薬師如来だそうである。
入母屋造りで5間4面の建物はブナ材の建築物では日本最古といわれるとホームページには書かれていた。開山時に比叡山延暦寺より分灯されたという不滅の法灯も拝する事ができると書かれるが、見落としなのか意識に入ってこなかった。
参拝後ご朱印をいただこうと列に並ぶも、若い僧侶らしきもののため息こそ聴こえないがやる気ない不機嫌な様子が伝わって来た。悟りを得るためにこの世界に入っただろうに、まだまだ半人前という事なのだろうか。
40年以上も前であれば、ご朱印は大方の場所で無料で頂けたのだがそれでも不快な思いにさせられることはなかった気がする。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」少し大袈裟に方丈記の一節を思い浮かべてみた。
松尾芭蕉と曽良の像である。
なぜ同行者が河合曾良だったのだろうかと考えてみる。其角でも嵐雪でもよかったわけで、仮に曾良を主役として芭蕉の影をぼかしたとしたら…
この旅の目的が違うものとして見えてきたら…と、謎めきに心躍る時だった。なにしろ芭蕉は伊賀の出なわけで…
山門であり登山口と書かれていた。1015段あるという階段はここからのカウントだろうか?もう少し手前からだったのだろうか??
木立の気持ち良さが、階段数もなんのそのである。
仁王門である。
左右の仁王尊像に目もくれず、けやき材だという建物の見事さに魅了されて通り過ぎたのが幸いした。
邪心以外になにもない私たちである。仁王尊像と目が合えばそこからは引き返さなければならなかったはずである。
左側の建物が中性院である。
江戸期までは12支院の1つで多くの僧が修行に励んだ場所とされている。入口あたりに「おびんずるさま」が鎮座している。
おびんずる様はお釈迦様の弟子「十六羅漢」の中でも特に神通力が強かったとされ、病を治す力を持っていたといわれるようだ。ボケ封や撫で仏の名で知られている。
奥の院と大仏殿である。
右側の三角屋根が奥の院で石墨草筆の写経道場なのだそうだ。石墨草筆とは千年以上使っても擦り減らないという硬い石墨と草で作った筆を使い写経するということのようだ。
草の筆にて書するは真さに草書、見せて頂けるものならお願いしたい道場の景である。という事で改めてご朱印帳を繰ってみるといずれ劣らぬ立派な書であった。
左側が大仏殿、像高5メートルの金色の阿弥陀如来像を安置してあるのだそうだが、階段を上り切ったつもりで、ここが奥の院かと見上げるに留めた事が悔やまれる。
納経堂と開山堂である。
岩上にたつ小さな建物が納経堂であり、右側にある開山堂は立石寺を開いた慈覚大師円仁を祀る廟所である。
五大堂である。
五大明王を奉る(たてまつる)五大堂は舞台造りとなっており、ここからの下界の眺めは爽快そのものだった。
山寺駅前から宝珠山を望む。
最後に芭蕉記念館へと立ち寄りお抹茶をいただいた。来館者も少なくゆったりと出来たが、帰る頃には駐車場へと滑り込む車が出始めていた。
立石寺の根本中堂には現世に願いを叶えるという薬師如来が祀られ、大仏殿には死後の安らぎを叶える阿弥陀如来が祀られている。
また、根本中堂の近くには日枝神社もある。ここでの明治初期の神仏分離がどのように作用し今があるのだろうかと気になるところであった。
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