ゆらりまゆ no 国会議事堂(東京都)

あんががま

2024年11月04日 07:58



さて国会議事堂の見学をしてみた。フラリと降り立った永田町駅には海抜28.3mと出口付近に書かれる。この日は参議院・衆議院の両方を見比べてみる事に。

まずは参議院口へと向かい受付の警備の方に「見学希望です」と伝えると、ここは参議院口ですがそれで大丈夫ですか?はい!と伝えて受付表に書込み提出、時間には手荷物検査を済ませ集合場所へと案内される。衆議院では集合場所においての手荷物検査となる。

参議院でのこの日は校外学習の子ども達だろうか、列の先頭付近に整然と体育座りで待機していた。他にもツーリスト絡みと思われる団体さんも居たが、当日申し込みの個人が優先的に案内された

管内は写真の撮れる場所が決まっていて、案内の方からG O!が出た時だけスマホカメラを向ける約束だ。これは衆・参ともに同じようだ。



参議院(旧貴族議員)議場においては天皇席が用意されているが衆議院議場にはない。これは定例会などの始まりは衆参両院合同でこの場所で行われる事が決まっているからなのだとか。ちなみに天皇の同席は国会の招集にあたり天皇の国事として憲法に定められているためという。



議場は参議院の演壇への階段が扇型に造られているのに対し衆議院のそれはシンプルな形状だ。テレビの国会中継でもこれを目処にどの議場だかすぐに判断が付く



2階席には仕事とは言え気の毒なほど手狭な記者席も用意されており、その後ろに傍聴席が傾斜し記者席の手摺部分には議場に向かい士農工商の木彫りが施されている。これは衆参議場いずれも同様だが、衆議院議場ではまず国会議事堂の歴史についてのアナウンスが流れてきた。

国会議事堂は左右対称になっており議事堂内の全ての赤絨毯の総計は4Kmにも及ぶという。現在の価格にして1億円以上だと話されていたような気がする。赤絨毯の変色が気になり「これは水漏れの跡ですか?」と聞いたところ、赤絨毯特有のもので日焼けによる変色ですと答えられた。

中央玄関からの赤絨毯もあるが、これを踏むのは天皇陛下をお迎えする時と選挙後に議員が初登院する時、外国の大統領を国会へお迎えする時だけなのだそうだ。

議事堂内には郵便ポストも存在し壁にひっそりと佇んでいてうっかりすると見落としそうである。残念ながらこの日は投函物の用意がなく眺めるにとどまったのが残念だった。

国会議事堂は国産品での建設方針のようだったが諸々の理由から3つだけは海外製品になったのだと言われた。それがドアノブ・ステンドグラス・郵便投函筒の3つだ。因みに郵便投函筒は下写真の右上がそうである。



内部は主に大理石が使われており、中央塔辺りでここに使われているのは琉球石灰岩ですとの案内を受ける。国会議事堂が出来たのが昭和11年それから34年後の昭和45年に漸く国政への参加が認められた沖縄県民の瀬長亀次郎。かつてこの場所で衆議院議員として議会に立ったのかと複雑な思いがよぎる。



中央塔広場の部分には大隈重信・伊藤博文・板垣退助の像が立ち、一つ空台座があるのだそうだ。今回は中央塔広場の場所には入れて貰えず上から見下ろすのみだった。

台座のみの設置は像を立たせれば結果的に皇居に背を向ける事になるからとか、政治は常に未完であることを意味するとか諸説あるようだが、個人的には後者であって欲しいと思いたい。「百尺竿頭に一歩を進む」と尾崎行雄氏の時計塔記念碑に書き込まれた禅の思いは未だいき続けているのだと信じたいのである。

国会議事堂設立は1936年(昭和11年)11月7日、帝国議会議事堂として建設されたのだという。中央塔の外観塔の高さは65.45m(天井までの高さは32.62m)、南北206mのシンメトリーという造りとなっていて正面右が衆議院、左が参議院となる。





さて、この辺で外観見学となる。写真上の中庭的な場所へ抜けると楕円形の噴水池がある。当時の貴族議員の登院は馬によるものらしく、アーチ型の出入り口(下写真の黒車の後ろのアーチ)の高天井は乗馬登院を考えてのもので、噴水池と思われたものは馬の水飲み場であったと説明される。時間の止まった場所である事に改めて気づかされる。写真は参議院側からのものである。



2003年の落雷により塔の突端が破損され鹿島建設により補修されたようだが、案内の方が「ほら、あの白い部分です」と説明されるも私自身の目視判断にはいささか遠すぎた。写真は衆議院側からのものである。

明治期の旧貴族議員であった前島密氏の活躍や衆議院議員だった尾崎行雄氏など政治の世界もビジネスの世界も等しく創業期は先見の明や倫理観に裏打ちされた思想のもと歩みを止めない人々の存在のあった事を学び直す国会議事堂見学でした。


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