2022年10月09日
ゆらりまゆ no 目黒区駒場散策(東京都)
教養学部旧第一高等学校本館(時計台)
1933(昭和8)年の竣工だというのだから、およそ90年近く建っている事となる。国の登録有形文化財なのだそうだが、一見するともう少し手入れはできないものかと思ったりしつつ駒場散策となる。
動き出す前には先ず腹ごしらえである。東大駒場キャンパス正門を背に学内を左方向へと進むと、”ルヴェソンヴェール駒場”のフレンチレストランがある。
木々の間の小さな建物は見落としそうにもなるが、味も接客も店の雰囲気も申し分ない。学内であるためかお手頃価格での提供が嬉しいフレンチレストランである。
そう言えば、かつてこの地に農科大学があり上野英三郎博士が農学博士として通っていたようだ。上野博士と言えば渋谷の忠犬ハチ公像が有名だが、2015年には博士とハチ公の像が90年ぶりの再会として製作され文京区本郷にある弥生キャンパスに建てられたのはニュースにもなった。
長い歴史の中で大学の合併やら敷地交換などもあり東大農学部は現在の本郷にある弥生キャンパスが所在となる。そのためなのか新たな像は駒場ではなく本郷の地に置かれたのだろう。

2015年に東京大学弥生キャンパス農正門左側に設置された像
食後は学内の第2グランドを迂回し駒場通りを横断、住宅街にある駒場公園南口から旧前田侯爵邸へと向かう。
旧前田侯爵邸本館 洋館
館内
旧前田侯爵邸のある区画は三方ともに駒場通りとなっている。邸宅のある目黒区立駒場公園を取り囲むように住宅街があり、その外側が駒場通りとなっている。住宅街はかつての家臣たちの居住地であったとはwebの情報である。
百万石大名と言われた加賀藩の江戸上屋敷があったのは現在の東京大学本郷地区キャンパス、名残の赤門は東大の顔のようなイメージさえある。明治政府になり江戸幕府所有である拝領屋敷は政府に接収されるわけだが、そんな流れのなかにあり旧前田の殿様もだいぶ小さくなった居住地を本郷に残すに至る。
かつての加賀藩上屋敷跡地に建てられたのが東京帝国大学である。その後学地の拡張により残存している旧前田家の居住地は駒場の土地と交換される事となる。この地は数ある政府の土地の中から旧前田侯爵ご自身が決めたのだという。
旧前田侯爵邸 和館
和館は洋館の裏手にあたるように造られている。これはお母様を住まわせるために造られたものといわれたり、目黒区のHPには
侯爵が当時ロンドン駐在武官であった事から外人接客用に建てたものともいわれると書かれていたりする。まあ、両方の用途に用いられたという事なのでしょう。
日本民藝館へと向かう

この民藝館の企画展こそが本来の目的であった。が、琉球そのものの展示品が思いの外少なかったのは少々残念だったが、柳宗悦の民藝の起点となる朝鮮の焼き物や緻密な象嵌技術など興味深かい企画展であった。
日本民藝館 入口
民藝運動の父、柳宗悦の日本民藝館は1936年竣工の建物である。大谷石に魅了された柳宗悦の大谷石をふんだんに使った建物なのだという。門柱や石塀、建物の壁などに大谷石を使いなまこ壁に見えるのは左官模様なのだそうだ。
日本民藝館 西館(旧柳宗悦邸)
柳宗悦の居宅として1935年に栃木県より移築された建物で屋根にまで大谷石瓦が使われているのだとういう。その翌年に日本民藝館の竣工となるのだからかなりの資産家だったのかもしれない。
この日本民藝館の場所も旧前田家の所有地の一部であったように思える位置である。明治以降の天文観測は海軍から始まるとされるが宗悦の父の柳楢悦(ならよし)は海軍水路事業の創設者でありドンであったというのだから、元を辿れば旧前田家の家臣であり優秀な学者であったのかもしれない。と、想像を膨らませてみた駒場散策であった。
折角なので少し歩こうという事になった。
駒場通りから代々木上原駅を目指せば井の頭通りへとぶつかりそのまま道沿いに原宿方面を目指す。
途中、富ヶ谷歩道橋上からこの辺りの窪地を確認。線状降水帯でも現れようものなら大きな水溜りが予想されそうな場所である。
そのまま直進、井の頭通りの名が代々木公園通りへと名を変える辺りになれば程なく五輪橋が見えてくる。
そこを過ぎれば、左手に何の風情も感じられない新しい原宿駅のお目みえである。
今度は表参道へと名を変えた道を突き進み目についた居酒屋へと立ち寄る。百薬の長に潤いを求めた後は明治神宮前駅で散会とした。
ところで、この井の頭通り或いは代々木公園通り或いは表参道は都道413号線(赤坂杉並線)と呼ばれるものらしく赤坂から井の頭へと繋がる約11キロの道なのだという……今度「歩いてみようか11キロ」と、いう気になった。
Posted by あんががま at 09:07│Comments(0)
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