2024年08月25日
ゆらりまゆ no 五箇山合掌造集落(富山県)
岐阜県飛騨高山から富山県の日本海へと流れる庄川は115kmの一級河川なのだそうだ。途中にユネスコ世界遺産に登録されている五箇山の相倉合掌造り集落や菅沼合掌造集落・白川郷がある。
五箇山とは、5つの谷間(やま)から構成された集落群の総称と言われる。この辺りは1500m級の山々に囲まれ、冬には2〜3mの積雪がある豪雪地帯なのだそうだ。
1585年からの加賀藩政権時代に入る頃には五箇山には70の集落があったのだと、五箇山観光サイトのH Pに書かれる。そして江戸時代には能登島(現・石川県七尾市)とともに五箇山が流刑地として定められたのだという。
富山県の大牧ダムから庄川沿いに国道156号線を走ると合掌造りラインとなる。最初に相倉集落が見える。相倉合掌造り集落は1970年(昭和45年)に国指定の史跡となっている。
展望台へと向かうが山道に手作り感満載の案内板が立つ。大型動物たち出没のメディア情報も飛び交う中、熊との遭遇もあるのではないかとヒヤヒヤしつつ展望台へと辿り着く。眼下に広がる山間の合掌集落の景は懐かしくもあり寂しくもありと遠い時代へと誘う。
相倉(あいのくら)集落には屋根が地面と接しているのが特徴の原始合掌造りもあり現存する合掌造りの原型であるようだ。五箇山の民家がこれをもとにして「素屋造り」から「四つ囲い」へ、「妻入り」から「平入り」へと発達し、さらには二階建ての茅葺民家へと変遷した過程を、集落内の民家の外観からも見ることができます。と、五箇山観光情報サイトには書かれている。
国道156号線をしばらく行くと村上家住宅(国指定重要文化財)が道路右側に見えてくる。左側を国道と並行するように流れる庄川に架かる太平橋を渡っていくと加賀藩政権下で利用されたと言われる流刑小屋が残っている。とはいえ当時のものは大雪で倒壊したため場所を変えての再建だという。
加賀藩の流刑地は五箇山と能登半島が選定されていたようで、政治犯などが送り込まれていたようであった。この流刑小屋は「御縮小屋(おしまりごや)」と呼ばれていたようで重罪の流人が入れられたようである。
便所のついた6畳ほどの板の間に格子窓1つで収容と釈放の時以外は施錠され、食べ物の受け渡しも柱に開けられた穴から行われたのだという当然、村人との接触はその時以外はかなわずである。
かつての流人は流刑地での集落内であればある程度の自由な活動は認められていたようである。これは通常の流人の場合であり、この地におけるお小夜の悲恋物語が伝わるのもこの為なのだろう。
さらに重罪の者は流刑小屋の中に設た檻の中に入れられ全くの自由を奪われたとされる。加賀藩政権では1667年から廃藩となる明治維新までの約200年間に約150人程がいくつかの集落に流されたという。それが多いのか少ないのかは分からないが、なぜか歌舞伎者と言われた前田利常が頭をよぎる。
夏だというのに五箇山集落に流れる水量の多いためか、流刑小屋周辺は湿気が漂う。白川郷のそれより急勾配だという五箇山の合掌造は積雪の多さのためと言われるが、流刑小屋の冬期の厳しさはいかばかりだったのかと思ったりするのである。
現在、富山県と岐阜県の県境付近には7つの橋があるらしいがその内6つの橋は庄川を渡るたびに2つの県が入れ替わる珍しい場所となっているのだそうだ。
江戸時代の五箇山は流刑人の逃亡を防ぐために庄川に橋を架けることを禁じていたため籠の渡しが利用されていたようである。降水量の多い日本ではほとんど産出されななった黒色火薬の原料となる焔硝(えんしょう)の生産を行うという軍事機密の場所である事と流刑地でもあるため人の出入りの自由を奪う必要があったのかもしれない。
見本としてではあるが冬期を除き菅沼大橋からは庄川にかかる籠のわたしをみることができるようだが、今回はこの集落を素通りしているので歌川広重の六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)の中にある『飛騨 籠のわたし』を掲載してみた。
五箇山合掌の里あたりを過ぎ五箇山I Cから東海北陸自動車道にて富山県を抜け岐阜県の白川郷方面へと向かう事にする。
Posted by あんががま at 09:18│Comments(0)
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